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愚茶へのいざない
 

人はどんなに真剣にまじめに生きたとしても、人生にはその人なりの愚かさしさが笑いとなってまとわるものである。

 

派手に生きても地味に生きても、そのひとなりの愚かしさは滑稽味となって、現われに添うのである。

 

人は賢く生きたいと願いながら、結果として愚かしさをあらわにして、その一生を終わっていくものかも知れない。

 

私たちが生きいく上で愚かに転落しないためには、人の存在そのものが仏教でいう「空」であることと、達磨大師が渇破した「無功徳」とを認識することである。

 

この「空」と「無功徳」とに向き合わないことで、人は愚に堕ちてしまうのである。

 

「愚」の大字と向き合い、自我を突き放して、「我」に付いて回らないことである。

 

すべてのことに「とらわれながらとらわれない」という心の用い方を徹底していかなければ、

 

人の一生は「愚の骨頂」となってしまうのである。

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